近代の王寺

更新日:2017年02月28日

明治時代〜昭和時代

 古代から重要な交通路であった大和川では舟運の発達が見られましたが、明治になるとこの大和川に沿って湊町(みなとまち)〜奈良間の鉄道が大阪鉄道によって計画され、明治23年(1890)には奈良県で初めて王寺〜奈良間の鉄道が開通しました。その後、同24年には同鉄道王寺〜高田間が開通し、25年には湊町〜奈良間が全通して、大正には大和鉄道や信貴生駒電気鉄道が開通しました。これによって、王寺駅を中心とする鉄道網が整備され、かつて大和川を行き来していた川船は消滅することとなり、代わって王寺駅前の久度地区には新しく商店街が誕生しました。農村であった王寺村もしだいに交通・商業の町へと姿を変え、大正15年(1926)に、王寺村は王寺町となりました。 鉄道の歴史は「 鉄道と王寺」に詳しく説明しております。 

平城電気軌道(へいじょうでんききどう)

 平城電気軌道は、明治43年(1910)に王寺駅を起点として、勢野(せや)、龍田、法隆寺、小泉、郡山を通って西大寺に至り、そこから法華寺、奈良駅、奈良市街を通って若草山の中腹を終点とする路線を計画し、その設置を願い出ました。このような路線を計画したのは、法隆寺や郡山城跡、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡、法華寺などの旧跡を結んで、当時減少していた観光客を増加させるためでした。しかし、この計画は、まもなく開通する予定であった大阪電気軌道(現、近鉄橿原線)と路線が部分的に重なること、それに若草山の中腹を終点としては奈良公園の風致を損ねるとの理由から却下され、平城電気軌道が開通されることはありませんでした。

(画像)平城電気軌道計画路線図

平城電気軌道計画路線図 

亀の瀬地すべり(かめのせじすべり) 王寺町藤井・大阪府柏原市峠

 亀の瀬地すべりは、昭和6年(1931)末に大阪府堅上村(現、柏原市)峠地区の山が大和川に向かってすべりだしたことからはじまりました。翌7年にはさらに激しくなり、王寺町藤井地区では大和川の川床が隆起して流路がふさがれ、大正橋や国道沿いにあった民家が浸水しました。また、大和川の右岸を走っていた大阪鉄道の亀の瀬トンネルもこの地すべりによって崩壊しました。こうした被害の一方では、1か月に40万あまりもの人々が地すべりの様子を見学するために亀の瀬を訪れました。それは、道端に露店のカフェーや売店などが設けられるほどのにぎわいぶりでした。亀の瀬地すべりはその後も数回起こり、現在でも地すべり防止工事が続けられています。

王寺町の誕生

 明治から大正にかけて、王寺駅を中心とした鉄道網が整備され、農村であった王寺村にも駅前で商店を営む人や、大阪方面へ勤めに出る人たちが急増しました。このころから王寺村は「町」の名にふさわしい姿を整えはじめたのです。そして、大正15年(1926)2月11日、町制が施行されて「王寺町」が誕生し、祝賀会が盛大に催されるなどしました。

 4月には、当時まだめずらしかった航空機の祝賀飛行が大和川の河川敷で行われましたが、これが着陸に失敗して、その様子をみようと集まった児童に突入し、2名が死亡、22名が負傷するという大惨事を引き起こしました。これも忘れてはならない王寺町の悲しい歴史のひとつです。 

(写真)王寺町の誕生を伝える新聞

王寺町の誕生を伝える新聞(大正15年2月13日付『大和日報』) 

王寺駅前商店街 王寺町久度

 明治23年(1890)に王寺駅が設置されるまでの久度地区はわずか30戸あまりの農村であり、商店は門前・井戸・白瓜の各地区に点在するばかりでした。それが久度地区に駅が設置されると、またたくまに駅前に商店街が形成され、昭和10年(1935)には久度地区の戸数が654戸にまで増加しました。大正11年(1922)に信貴生駒電気鉄道が開通するまでは旅館や飲食店、駕籠・人力車を扱う店などが多く、信貴山への参詣者でにぎわったといいます。このほか、食料品や日用品を扱う店も多く、昭和初期ごろには「カフェー」や風呂屋、劇場などもあり、これらを利用する人々で駅前商店街はたいへんなにぎわいをみせていました。

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