古代の王寺

更新日:2017年02月28日

弥生時代〜平安時代

 王寺町地域の古代史は、この地が大和川の水系を通じて奈良盆地全体の玄関口にあたっているということに関係して成り立っているといえます。たとえば、舟戸(ふなと)・西岡(にしのおか)遺跡は、大和川のほとりに位置する弥生時代後期の高地性集落であると考えられています。高地性集落とは丘陵上に営まれ、見張り台や烽火(のろし)による連絡の役目を担った集落のことをいいます。

 また、敏達天皇の系統の王族が6世紀後半ごろからこの地域を重要視し、桜井市地域から進出をはかって片岡王寺(かたおかおうじ)を創建するなどしたのも、この地域で勢力を伸ばせば、大和川の水系を通じて、当時の中心地であった飛鳥地域にも大きな影響を与えることができたからだと考えられています。

舟戸・西岡遺跡(ふなと・にしのおかいせき) 王寺町舟戸・河合町

 この遺跡は、王寺町で初めて発掘調査によって確認された弥生時代後期の遺跡です。ここからは、復元すると径11〜12メートルになる比較的大型の竪穴(たてあな)住居の遺構が検出され、遺構からは壷・甕・高杯(たかつき)・鉢の土器が出土しました。竪穴住居の中央には炉が設けられており、出土した壷のなかにはヘラ描き記号をもつものもありました。

 大和川を見下ろす丘陵上に立地し、遺物が広範囲に散布していることから、見張り台や烽火(のろし)による連絡の役目を担う高地性集落であり、それはかなり広範囲にわたって営まれていたのではないかと考えられています。 

(写真)舟戸遺跡検出画像

竪穴住居の検出状況(奈良県立橿原考古学研究所提供) 

(写真)舟戸遺跡出土土器

舟戸・西岡遺跡から出土した土器類(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館提供) 

畠田古墳(はたけだこふん) 王寺町明神4丁目

 この古墳は、径15メートル、高さ4メートル以上の円墳で、南に開口する全長5.9メートルの両袖の横穴式石室をもっています。玄室から須恵器の杯蓋(つきふた)と高杯、鉄鏃(てつぞく)、金環、刀装具、ガラス小玉などが出土し、出土した金環3点のうちの2点は1セットで銅芯金張りの優品です。出土遺物や古墳の築造法などからすると、7世紀初頭に渡来人か渡来文化の基礎知識をもつ人によって築造された古墳であると考えられます。

(写真)畠田古墳の遺物

畠田古墳から出土した遺物類

(写真)畠田古墳(整備後)

現在の畠田古墳

達磨寺1号墳(だるまじいちごうふん) 王寺町本町2丁目

 達磨寺の境内にある3基のうちの1基で、本堂の東北隅にあります。この古墳は復元すると径16メートル、高さ4メートル以上の円墳で、東に開口する全長5.8メートルの両袖の横穴式石室をもっています。玄室からは、組合せ箱式石棺の一部が確認され、石棺の付近からガラス小玉、ガラス管玉、鉄鏃片のほか、杯、台付長頸壷、同蓋、長頸壷、提瓶、短頸壺などの須恵器が出土しました。出土遺物から、この古墳は6世紀末ごろに築造されたと考えられます。2号墳は1号墳の南約8メートルの地点に位置する円墳で、3号墳は本堂の下に存在する円墳です。

 なお、地元では、1号墳の石室は法隆寺まで続くほら穴で、聖徳太子が法隆寺と達磨寺を行き来するのに使用していたと言い伝えられています。 

(写真)達磨寺1号墳

達磨寺1号墳

片岡王寺(かたおかおうじ) 王寺町本町2丁目

 片岡王寺は放光寺・片岡僧寺ともいい、王寺小学校付近に建立されていました。明治20(1887)年ごろまでは土壇や礎石が残っており、それは南向きの四天王寺式伽藍配置を示していたといいます。ここからは古瓦が多数出土しており、その中のひとつである素弁形式の軒丸瓦は創建期の瓦で7世紀前半の特徴のものです。片岡王寺の創建については諸説がありますが、現在では7世紀前半に敏達天皇の系統の王族が創建したと考えられています。片岡王寺の伽藍は永承元年(1046)の雷火による焼失を契機に大きく衰退し、現在では放光寺として存続しています。なお、王寺の地名は、この片岡王寺に由来していると考えられます。

(写真)発掘調査中、上空から撮影

発掘調査中、上空から撮影(奈良県立橿原考古学研究所提供) 

(写真)片岡王寺跡出土鬼瓦

片岡王寺跡から出土した鬼瓦(奈良県立橿原考古学研究所提供) 

西安寺(さいあんじ) 王寺町舟戸2丁目

 西安寺は舟戸神社付近に建立されていた寺院で、現在も「西安寺」の小字名が伝えられています。かつてはこの地に礎石や塔芯礎も残されていたといいます。石田茂作氏の研究によれば、舟戸神社拝殿の北側を塔跡、本殿の南側を金堂跡として、西向きの法隆寺式伽藍配置が推定されています。ここからは古瓦が多数出土しており、そのなかのひとつである忍冬文と蓮蕾文を交互に表した軒丸瓦は、西安寺創建期の瓦です。西安寺は、7世紀中ごろに百済王の末裔を名乗る渡来系氏族である大原史氏によって創建されたと考えられています。

(写真)舟戸神社付近

西安寺が建立されていた舟戸神社付近

(写真)西安寺跡から出土した軒丸瓦

西安寺跡から出土した軒丸瓦 (奈良県立橿原考古学研究所附属博物館提供)

片岡司(かたおかのつかさ) 王寺町

 王寺町付近にはかつて片岡司がありました。片岡司とは長屋王の重要な経済基盤であった御田(みた)や御薗(みその)を管理する機構のことをいいます。平城京長屋王邸跡(現、イトーヨーカドー)からは、片岡司から長屋王邸に運ばれた進上物などを記した木簡が出土しました。その木簡には、女性の手によって菁や蓮根、桃などが長屋王邸に進上されたことが記されており、ここから片岡司にはこれらを栽培する菜園や池沼、果樹園などがあったことがわかります。片岡司は敏達天皇およびその後裔の王族の家産であり、天武天皇、高市皇子から長屋王へと伝領されたと考えられています。

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奈良県北葛城郡王寺町元町1-9-28
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