近世の王寺

更新日:2017年02月28日

安土・桃山時代〜江戸時代

 近世の王寺町地域には、王寺村、門前村、藤井村、畠田村の4か村がありました。王寺村は久度・舟戸・張井・大工(井戸)・大峯・大田口・白瓜・中村・池原の9組で、畠田村は山上・小黒・送迎(ひるめ)・尼寺(にんじ)の4垣内(かいと)で構成されていました。門前村は、慶長7年(1602)に徳川家康から達磨寺に30石の領地が寄進されて王寺村から独立しました。各村の領主は、数回変遷していますが、天保期(1830〜1844)でいえば、王寺村は幕府、門前村は達磨寺、藤井村と畠田村は郡山藩でした。基本的には、米を作って年貢を納めるという農業中心の生活を送っていましたが、大和川の舟運に関わる問屋を営んだり、酒屋や油屋などの商業を営む人などもいて、商工業も活発でした。

達磨寺(だるまじ) 王寺町本町2丁目

 達磨寺は、13世紀前半に勝月上人(しょうげつしょうにん)が達磨太師の墓であると伝えられていた古墳の上に三重塔を建立して開基されたと考えられています。その後、東大寺や興福寺など旧仏教勢力からの弾圧や松永久秀の戦火によって荒廃しましたが、そのたびに復興をとげました。とくに、永享年間(1429〜1441)には室町幕府の保護のもと大規模な復興がなされています。

 慶長7年(1602)「徳川家康朱印状」は、徳川家康が達磨寺に寺領30石と境内竹林を寄付することを記したものです。これ以来、達磨寺は門前村を領地として支配するようになりました。朱印状は将軍の代替わりごとに発給され、現在でも徳川15代将軍のうち12通の朱印状が伝えられています。

(写真)達磨寺の文書群

達磨寺に渡された朱印状

送迎太神宮(ひるめだいじんぐう) 王寺町明神山山頂付近

 送迎太神宮は、文政13年(1830)のおかげ参りのときに、西山(明神山)にお札が降ったのを契機に創建されました。おかげ参りとは、人々が伊勢神宮に集団で参詣することをいいますが、このとき送迎太神宮にもたくさんの参詣がありました。「和州送迎太神宮之図」には本宮や鳥居・灯籠・参詣の様子が描かれています。畠田村には茶屋や万金丹屋などがつくられて大いににぎわいました。現在、火幡神社(ほばたじんじゃ)にある石灯籠と白山姫神社(しろやまひめじんじゃ)にある石鳥居は、もと送迎太神宮に奉納されていたもので、白山姫神社の石段には「送迎太神宮道」と刻まれた石が転用されています。

(画像)送迎太神宮の絵図

送迎太神宮の絵図(天理大学附属天理図書館所蔵) 

(写真)白山姫神社の石段

道標が転用された白山姫神社の石段

(写真)明神山山頂付近

送迎太神宮があった明神山の山頂付近(現在は水神社があります) 

魚梁船と藤井問屋(やなぶねとふじいどんや) 王寺町藤井

 大和川には、主に大和の農民が田畑に使う肥料を大坂から運んでくる川船が就航していました。大坂から剣先船(けんさきぶね)で運ばれてきた荷物は、亀の瀬の滝のところで魚梁船に積み替えられました。魚梁船(やなぶね)は立野村(現、三郷町)の安村喜右衛門が支配し、筒井や今里、松本、河合などまで荷物を運んでいました。これに対し、藤井問屋は剣先船で運ばれてきた荷物を亀の瀬で受け取り、そこから大和の各地まで陸路を牛馬で運ぶ業務を担っていました。藤井問屋は藤井村の庄兵衛が慶安(1648〜1652)のころにはじめたと考えられ、剣先船から荷物を小揚げ(こあげ)する仲仕(なかし)や牛馬で荷物を運ぶ駄賃取りが働いていました。駄賃取りはおもに王寺村の人々が農業の合間に勤めていました。

(写真)亀の瀬問屋場の絵図

亀の瀬問屋場の絵図(奈良県川西町教育委員会提供) 

(写真)藤井問屋の印判類(王寺町指定文化財)

藤井問屋の印判類(王寺町指定文化財)

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