飢人伝説

日本書紀をひもとけば、613年(推古21年)、聖徳太子40歳の12月1日のお話です。
その日は久しぶりに空が晴れ渡り、大和の国と葛城の国の境である金剛・葛城の峰々は雪で彩られ、荘厳な冬の装いを見せていました。
太子は朝早くから供を従えて、斑鳩の宮から10数キロ離れた山本陵(太子自らの御陵)の築造工事をご視察になり、順調な進行に満足されたその帰途でのこと。
片岡山にさしかかった道端に、飢えと寒さで息も絶え絶えの人が倒れていました。


木造聖徳太子坐像(達磨寺)
<重要文化財>

太子の漆黒の愛馬が、何故かピタッと脚を止めたので、太子は鞭を加えられました。しかし、一向に進もうとはしません。不思議に思われて馬から降り、飢人に近寄って名を尋ねられたが、答える力もないのか無言のままでした。
その飢人は、太子がかつて会ったことのない異相の人でした。面長の顔、大きな頭、長い両耳、そして、細く切れ長の目をいっぱいに開き、修行を積んだものだけがもつ鋭い眼光で太子を見上げていました。衣服はボロボロでしたが、その体からはとても良い香りがしました。
太子は哀れに思われ、持参した弁当と飲み物をお与えになり、さらに寒風に震えている飢人の体に、「安らかにお休みなさい」と声をかけながら、ご自身の紫の衣を脱ぎ自ら着せかけられました。
そして「しなてるや片岡山に飯に飢て臥せるその旅人あはれ親なしに汝生りけめやさす竹の君はや無き飯に飢て臥せるその旅人あはれ」という歌を詠まれ、心を残しながらその場を立ち去られました。
太子は斑鳩の宮に帰られてからも、飢人のことが気がかりで、翌日に人を使わして様子を見てくるよう命じられました。しかし、報告によると飢人は既に死んでいたとのことで、太子は大いに悲しまれ、その場所に墓をたてて飢人を手厚く葬られました。

数日後、太子は周りの者に「あの飢人は、きっと聖人にちがいない。」と言われ、ふたたび使いを出して調べさせました。
戻ってきた使いの報告によると「墓は一見なんの異常もありませんでした。しかし念のため墓を開いたところ、不思議なことに遺骸はなく、飢人にお与えになった紫の衣だけが、丁寧に畳まれて柩の上に置かれていました」とのこと。
太子は再びその衣を取ってくるよう命じられ、平然といつものように着られました。その飢人は禅宗の始祖「達磨大師」の化身であると伝えられており、当時の人々はこのことを耳にして大いに驚き、「聖(ひじり)の聖を知る、それ誠なるかな」と噂して、太子をますます畏敬したといいます。


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