中世の王寺

更新日:2017年02月28日

平安時代後期〜戦国時代

 中世になると、王寺町地域では武士団の片岡氏が活躍しました。片岡氏は、王寺町や河合町・香芝市などからなる「片岡」と呼ばれる地域に勢力をもち、当時は大和一国を支配していた興福寺に従属する立場をとりつつも、しだいに勢力の拡大をはかるようになっていきました。いわゆる戦国の世のはじまりといえます。その一方で、この地域の中世史にとっては、諸寺院の動向も見逃すことはできません。放光寺や西安寺は荘園を経営しながら存続をはかり、ときにはその領有をめぐって争うこともありました。また、放光寺は伽藍復興に向けた行動も起こしています。そして達磨寺が開基されたのもこのころです。

放光寺古今縁起(ほうこうじこきんえんぎ)

 「放光寺古今縁起」は放光寺の僧であった審盛(しんじょう)が正安4年(1302)に著したもので、上下2巻からなります。写真で示しているものは、その写本で、奥書には嘉吉3年(1443)に僧の実誉(じつよ)が書写したと記されています。これによると僧の審盛は、永承元年(1046)の雷火によって焼失した伽藍が250年あまりを経てもいまだに復興されないので、これを復興する勧進を行うためにこの縁起文を記したとあります。また、実誉が記した奥書によれば、放光寺金堂の柱立が行われたのは、この縁起文が著されてから70年ほどを経た、応安4年のことでした。「放光寺古今縁起」には、片岡王寺の創建や伽藍の様子が詳しく記されており、片岡王寺についての貴重な文献史料です。

(写真)現在の放光寺

現在の放光寺

(写真)放光寺古今縁起

放光寺古今縁起

武士団片岡氏(ぶしだんかたおかし)

 武士団片岡氏は香芝市地域を拠点に、片岡庄などの荘園経営にかかわりながら勢力の伸張をはかっていましたが、明応7年(1498)には畠山尚順が率いる河内勢によって攻め落とされて片岡氏当主の利持が戦死し、その系統はいったん途絶えてしまいました。しかし、周辺に生き延びていた一族であり、王寺町地域を拠点としていた「弥五郎道春」が惣領家の当主となって片岡家は存続し、片岡城を築きましたが、この城は永禄12年(1569)、当時信貴山に城を構えて大和を侵攻していた松永久秀に攻められて落城しました。この後、片岡氏は豊臣氏に仕えるようになりましたが、江戸時代になり豊臣氏が滅びると王寺村の池の原に居住するようになりました。

(写真)片岡氏系図(首部)

片岡氏系図(首部) 

(写真)片岡氏系図(道春該当部)

片岡氏系図(道春該当部)

片岡城跡(かたおかじょうあと) 上牧町下牧

 片岡氏は16世紀初頭に片岡城を築き、これを本城としていました。「大和国葛下郡片岡系図」には、片岡城を築いたのは片岡国春であると記されています。片岡城が永禄12年(1569)に松永久秀によって攻め落とされた後、城は修復されて松永の支城になりました。葛下川をのぞむ丘陵の先端近くを利用し、急崖と丘麓の湿田による要害の地に構えられた片岡城は、4つの曲輪と空堀からなり、曲輪1が本丸に相当し、その南面からのルートが大手にあたります。現状から、曲輪1・2は片岡氏時代に、曲輪3・4は松永氏時代に築かれたと考えられます。 (上牧町教育委員会『片岡城跡―中世山城の研究』参照)

(写真)現在の片岡城跡

現在の片岡城跡(正面の山が片岡城跡)

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