片岡八郎(利一)物語

更新日:2017年02月28日

達磨寺本堂西側にある片岡八郎公の顕彰碑

達磨寺本堂西側にある片岡八郎公の顕彰碑

 達磨寺の本堂の西側に「石心松操」と彫られた大きな碑がたっています。これは、建武の新政を行った後醍醐天皇の第3皇子、大塔宮護良親王の重要な家臣のひとりで、大塔宮を護り、国や人々を救おうとした忠義の人、片岡八郎(本名=利一)の功績をたたえて建てられたものです。
 片岡八郎は王寺町の出身で、父は鎌倉の家人、母は大塔宮護良親王の乳母でした。天皇と大塔宮が鎌倉幕府倒幕を計画するも失敗に終わり、大塔宮が熊野へ逃げ延びる際お供したうちの一人で、大塔宮を守り十津川で戦死された人です。

 元弘元年(1331年)、大塔宮は勢力をほこっていた北条氏のわがまま勝手な幕府の政治のやり方にたいへん怒り、父の帝(後醍醐天皇)を助けて、北条氏をほろぼそうとしました。そのことを知った北条高時ら、幕府の軍勢と争いになり、笠置山において、帝は捕らえられて隠岐(島根県隠岐島)へと流されました。
 宮は、合流するために般若寺にかくれて笠置のようすをうかがっていましたが、笠置の城は落ち、帝が捕われたと聞くに及んで、危険が身の上にせまってきていると察し、熊野の方へ落ちのびることにしました。
その時のお伴は、片岡八郎利一などの忠臣9人です。一行は山伏の装束をまとい、熊野へ参詣に行く姿に見せかけました。藤白(和歌山県)、由良(同)を過ぎ、11月中ごろ、紀伊国印南郡切目の王子社にたどりつきました。
 その夜、宮がうとうとすると、夢の中に一人の童子が現れ、「熊野の三山の僧徒どもは、味方ではない。大和十津川の方へお渡りになって時機のくるのをお待ち下さい。」 童子がそう言ったところで目が覚め、これはまさしく権現様のお告げと心強く思い、夜が明けきらないうちに十津川にむけて道を辿りました。30数里(およそ150キロメートル)の道のりを歩き続け、ようやく13日目に大和吉野十津川の宇井地(現在の大塔村宇井)に辿りつきました。
 一行は上十津川村の竹原八郎入道の屋敷に身を寄せ、半年ばかりここで過ごしました。八郎入道の娘を側仕えに迎え、人に感づかれないように僧の身分をやめて俗人になり、名前を護良親王と改めました。片岡八郎は、宮のそばに仕え忠義をつくしました。
 幕府に味方をする熊野の別当定遍は、このことを聞き及んで、親王に賞金をかけ、親王をみつけ出そうと策をめぐらせました。
「親王を討ちとった者には、ほうびとして伊勢の車間庄の領地と賞金六万貫を、お供のものを討ちとった者には五百貫、降参を申し出た者には三百貫をそれぞれ賞金として与える。」というふれ書きを出したので、熊野地方の豪族らは欲につられて奇怪な態度をとりはじめました。
 親王はしばらくそのまま不安の日々を過ごしていましたが、ついに竹原入道の息子までが賞金に目がくらみ、父に背いて宮を討とうと企てていることが耳に入ったので、そっと十津川の御所を出て高野へ向かいました。
 道中、玉置の庄司盛高が待ち伏せをしていると聞かされました。そこで片岡八郎は親王の命令を受けて、矢田彦七を伴って盛高のところへ行き、説得しようとしました。盛高は、ろくろく返事もしないで奥へひっこんでしまい、そのうちに戦の準備をすすめている様子なので、二人は急いで親王に危機を伝えなければ、と引き返そうと走り出しました。
 すると、玉置の若党が50〜60人、大刀をつかんで後を追いかけてきました。八郎は落ちつきはらって、小さい松の陰にかくれて、一番先頭をきって進んできた敵騎の馬の両足を斬り払い、返す刃でもんどりうって落馬してきた武士の首を打ち落としました。この電光石火のような武者ぶりに後につづいてきた兵は仰天し、近づこうとはせずに、遠くからはげしく矢を射かけてきました。八郎は防ぎようもなく、二本の矢を身に受けて傷を負ってしまいました。
 とうてい助かる見込みはない。今は自分の命をかけても親王のご恩に報いるときであると覚悟を決め、矢田彦七を呼んで、「矢田殿、私はひどい深傷を負ってしまったのでここで最後をとげるつもりだ。あなたは、急いで駈けもどって、この危機を親王にお知らせ申し上げて、少しでも早くこの場から逃れてくださるよう伝えてくだされ。」とせきたてたが、彦七は「先輩を見捨てていくことはできません。私も一緒に戦って死にます。」というので、八郎は声をふりしぼって、「今は小さな事にとらわれることなく大事なことをやりとげなければならぬ。この事態を宮に知らせないで死んでは、かえって不忠になる。そんな不名誉なことを末代まで残すことにならないように。」
と言ったので、彦七もハッと気がつきました。
 八郎は、一人とどまって敵軍と戦いましたが「もうこれまでだ。」と武士の最後をかざろうと敵のまっただ中に斬り込み、勇ましく戦死しました。時は、元弘二年(1332年)の初夏のことでした。
 八郎の忠義の死によって親王は危機を脱し、紀伊の国の住人、野長瀬六郎、七郎の三千余騎に無事迎えられたのでした。

花折塚(十津川村)

花折塚(十津川村)

 その後、片岡八郎の討ち死にしたあたりに花折塚と呼ばれる塚ができました。その墓の前を通る人々が、八郎の忠義な心をしのび、山中の花を折って供えたところから折華塚、後に花折塚とよばれるようになりました。また片岡塚ともいわれています。(十津川村の玉置山頂からほぼ北へ2キロメートル、林道京ノ谷線沿いの山中にあります。)

その後の片岡八郎

片岡八郎の墓(達磨寺)

片岡八郎の墓(達磨寺)

 明治14年(1881年)、花折塚の碑を建立することがきまり、同15年10月25日に建設工事が完成した記念の式典が開かれ、多くの人々が参列して、山間の地にしては盛大な催しでした。
 大正4年(1915年)11月10日、国から片岡八郎(利一)の、忠義な行動に対して「正五位」が贈られました。片岡八郎が十津川で討死して580年以上もたっていますが、世の中の乱れを治めるために功績を残したことを認めたものです。

 昭和15年(1940年)片岡八郎の出身地、王寺町において皇紀2600年の記念事業として、小学校の校庭に顕彰碑「石心松操」が建設されました。また、達磨寺の境内には片岡八郎の墓が残されています。

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